終の棲家

終の棲家への想い 『住まいがあなたをサポートするという発想』

突然、倒れた父はくも膜下出血でした脳神経外科に救急車で運ばれ、8時間に及ぶ手術で一命を取り止めることが出来ましたが、病院の先生の話では「麻痺が残るでしょう」との説明を受け集中治療室にいる父をガラス越しに見守る日々が続き、1週間程度経った頃に腕と足がわずかに動いてるをみて希望の光が見えてきました。

幸い3週間程度で身体の麻痺はほぼ解消され、自分で病室から歩いてトイレに行けるまで回復出来ました。ところがトイレに行ったきり、自分の病室に戻れない状況が続いて、まだ頭の中は混乱している様子で自分が病院に居ることも認識できず「ここのホテルはいいな」と旅行気分です。毎回トイレから戻来る時は看護師さんに連れてきてもらう日々が続き、病室の入口ドアに紙で大きな目印を看護師さん作ってくれましたが「ここが病室ですよ」と説明しても一向に戻ってこれません。「夜間だけ家族の人が付いてもらえませんか」と病院より要請があり、1ヶ月程度家族で交代しながら、病室のベットの下に寝袋を敷いて過ごしました。トイレに同行して病室まで連れて帰る付き添いの日々が続き、先が見えない状況で家族は精神的にも体力的にも追い込まれたのです。

その後、病院より外出許可をもらい、お昼に自宅に連れて帰って食事やお風呂に入って夕方には車で病院へ送り病院に帰りました。病室に戻ると、これまで病院をホテルだと思っていた父が病院名まではっきり答え、トイレに行っても一人で病室へ戻ってこれるようになり、頭の中の混乱が解消されたようで家族はびっくり、2度目の希望の光が見えて来ました。
数時間ですが自宅に戻り、以前の生活をしたことで病状が回復した父を見て 住まいには病気を改善できる力があると と信じ 『住まいがあなたをサポートする発想』で介護住宅リフォームに取組んでいます。

またまた父が倒れました

おかげ様でくも膜下出血が100%完治して7年後のことです。 父は職人気質で酒と煙草が大好きなで、365日休みことなく飲んで吸っており、朝起きると玄関から外に出て煙草を吸うのが日課でした。札幌の1月は氷点下が当たり前で、早朝ということもあり-10℃前後で、まだ暗く多分、その日も朝5時前に起きて、いつもの通り煙草を吸いに外に出た後倒れたと思います。

新聞配達の方が、玄関先で倒れてる父を見つけ必死にドアのインターフォンを押して父の異変を知らせてくれたのです。まだ寝ていた母は、知らせを受け救急車で係りつけの地域の病院に向かい脳幹出血という診断を受け、手術が出来ない状況でしたが、またまた一命を取り止め、左半身に麻痺は残りましたが数ヵ月後退院して自宅に戻り、リハビリを行うことで身体機能向上が見込まれるとのアドバイスを受け、 『自分で出来ることは自分でする』をモットーに、父の在宅リハビリが始まりました。

まずは寝室からトイレへの移動を始め、母が手を引いたり肩を貸したり、杖を使ったりして時間はかかるし危なっかしいけど、なんとか自立でトイレへの移動が可能になり数カ月後にはある程度自由に移動が出来るようになり、父も行動範囲が広くなり、生き生きと生活が送れ、階段だけは新たに手すりを設けましたが、その他は今まで通りの状態でゆっくりではありますが、自立した生活が出来るまで回復して一安心。

数年後、病状の進行と加齢と共に体力が低下して、今まで出来ていたことが出来なくなり『要介護3』に認定を受け『介護保険制度』のお世話になることになり、介護用ベットと平行棒の手すり、浴室用シャワー椅子を借りることで介護する母の負担がずいぶん楽になったようです。デイサービスにも通うことで父にしても母にしても、お互いの負担感が減り、母が入院する時も父をショートステイでお世話になるなど、在宅介護を続けることが出来たのは介護保険制度のおかげだと思っています。
その後10年近く母の介護もあり「終の棲家」として自宅で看取ることが出来ました。もし 新聞配達の方が気が付いていなければ氷点下の中、凍死していたかも知れません。 地域の方に助けられ、家族にも住まいにも助けられた人生だった父は、幸せだったと思います